小田原の森を活用して福島県相馬市の復興支援
「報徳の森プロジェクト」実行委員会会長・近藤増男さん、事務局・永井壯茂さん


報徳の森プロジェクト実行委員会会長の近藤さん(左)と事務局の永井さん=小田原市久野、同市森林組合貯木場で

報徳の森プロジェクト実行委員会会長の近藤さん(左)と事務局の永井さん=小田原市久野、同市森林組合貯木場で

江戸時代後期の農村改革指導者・二宮尊徳が説いた「報徳思想」。余力や金銭を社会のために譲り合う「推譲(すいじょう)」の精神に代表されるその教えは、尊徳の故郷・小田原で今でも、受け継がれている。そのあらわれの一つが「報徳の森プロジェクト」だ。

小田原の市民や事業団体が主体となった官民一体の同プロジェクトは、小田原産の木材を活用し、東日本大震災の被災地・福島県での住民交流の場づくりや地場産業再生・雇用創出などに貢献する内容だ。支援先は、「報徳思想」を通じて歴史的に縁のある福島県相馬市。地元のNPO法人と連携し、現地のニーズを的確に把握しながら、継続的な支援を続けている。民間側のキーパーソンで、造園業を営む近藤増男さん(66)と、公務員の立場でプロジェクト全体の連絡調整役を担う小田原市役所職員の永井壯茂(ながい・たけも)さん(38)は「復興を機に、新たに始まるブランドやビジネスがあってもいい。報徳の森プロジェクトで、小田原と相馬の新たな“歴史”をつくっていきたい」と意気込んでいる。

小田原と被災地の課題を協働して解決

戦国時代から、城下町・宿場町として栄えてきた小田原。市農政課によると、市内には約4000ヘクタールの森林があり、約7割をスギ、ヒノキの人工林が占める。しかし、他地域同様、木材価格の低迷によって、林業の担い手は不足し、間伐もままならない状況が続いている。

一方、2011年3月発生した東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響で、相馬市では森林資源が活用できなくなってしまった。「荒廃する森林を再生し、林業を経済的に成り立たせていくためには、森に手を入れる機会を増やしていかなければならない。小田原産木材を活用して、相馬市の復興支援ができないか」。この「報徳の森プロジェクト」は、そんなコンセプトで走り出した。

“前身”となったのは、地元の市民や事業団体、行政による「無尽蔵プロジェクト 環境(エコ)シティ」と「おだわら森林・林業・木材産業再生協議会」。両団体メンバーが中心となり、報徳の森プロジェクト実行委員会は2011年12月に発足した。会長は、小田原市環境緑化協会会長である近藤さん。市農政課が事務局となり、活動をサポートすることになった。

近藤さんは「議論ばかりしていても何も始まらない。まずは行動を」と奮起。同月には最初の活動として、相馬へクリスマスツリーになるモミの木3本を寄贈した。プロジェクトのメンバーが自らトラックで運び、小田原特産のミカンやカマボコも一緒に届けた。あわせて、相馬に避難している福島県飯舘村の人々が運営する農園施設へ、防寒対策用内装材として一寸厚みの杉板77枚(2トントラック1台分)も贈った

「相馬はらがま朝市クラブ」との出会い

2011年12月、相馬に据え付けられたクリスマスツリー(報徳の森プロジェクト提供)

2011年12月、相馬に据え付けられたクリスマスツリー(報徳の森プロジェクト提供)

小田原と相馬は、「二宮尊徳」を通じて歴史的なつながりがある。江戸時代の相馬中村藩士・富田高慶は尊徳に弟子入りし、報徳思想を相馬で実践。さらに、尊徳の伝記「報徳記」を記したことで知られている。

こうした歴史的な縁で、両市は2011年9月に「災害時における相互応援に関する協定」を締結。生活物資の提供や職員派遣、被災住民の受け入れを申し合わせていた。プロジェクトを開始するにあたって、まず相馬に着目したのは自然な流れだった。

震災直後の2011年4月、林野庁から小田原市へ出向した永井さん=市経済部管理監=は、林業の振興活性化にかかわる傍ら、プロジェクトでは初期段階から事務局・コーディネーターの役割を担ってきた。

永井さんは、相馬市役所や同市の社会福祉協議会などに問い合わせ、小田原の木材を活用した復興支援を打診してきたが、なかなか具体化しなかった。ようやく10月に「小田原・箱根産業まつり」に出店した「NPO法人相馬はらがま朝市クラブ」(高橋永真理事長)と出会い、プロジェクトが具体化することになったという。

「相馬はらがま朝市クラブ」は、相馬市原釜の水産加工業者などで構成され、被災者自身による被災者支援に取り組むNPO法人。震災発生後の5月から、毎週末欠かさず朝市を開いて地域を元気づけるほか、リヤカーで仮設住宅を巡回して生鮮食料品を販売しながら、住民への声掛けをするなと、地道な活動を続けている。

永井さんは「緊急時には支援物資はもちろん必要ですが、地元産業を再生し雇用を生み出すことが、本当の意味での復興になることが分かりました。地域でお金を回す仕組みが必要だと考えていたとき、相馬に小田原木材で直売所を建てることを思いつきました」。小田原と相馬、互いの課題を解決するために目指すかたちが「直売所」という施設づくりに具体化した。

支援を通じて生まれた交流

報徳庵(報徳の森プロジェクト提供)

報徳庵(報徳の森プロジェクト提供)

相馬市は震災前、漁業が盛んな町だった。しかし東京電力福島第一原子力発電所の事故によって拡散した放射能の海洋汚染で、水産業を続けることが困難になってしまった。そこで、小田原が原材料を提供し、相馬で加工・販売して、地元の経済を活性化させる取り組みを始めた。

住民が集い、コミュニティーを再生させる拠点も必要と、震災発生から丸1年となった2012年3月11日、小田原から運んだ木材(4トントラック2台分)を内装材に使った直売所兼レストラン「相馬報徳庵」が相馬市塚田にオープンした。相馬報徳庵は同法人が運営し、小田原はじめ全国からのボランティアを受け入れる民間の窓口としても活用されている。

さらに同法人を通じ、同市で被災したパン販売店へ小田原や南足柄産のヒノキやスギ材を提供、同年5月の営業再開を後押しした。小田原産木材を使った建物が3棟になり、うち1つは復興支援拠点にもなった。同法人の髙橋理事長は小田原の支援へのお礼として、2012年1月に小田原市役所を訪れ加藤憲一市長に「報徳記」8巻を寄贈し、感謝の想いを伝えた。

被災地への関心を持ち続けてほしい

小田原市役所で行われた「報徳記」贈呈式(報徳の森プロジェクト提供)

小田原市役所で行われた「報徳記」贈呈式(報徳の森プロジェクト提供)

1年目に続き、2012年12月にもクリスマスツリー2本を相馬へ贈った。2013年春には、相馬市内にボランティアなど支援者が宿泊する施設へ木材を提供する予定もあり、着々と準備がすすんでいる。

プロジェクトには、小田原市の予算は使われていない。市民からの寄付や国の補助金などで運営している。活動資金の確保が目下の課題という。木材を運んだり施設のオープンに立ち会ったりして「相馬には6、7回は行った」と振り返る近藤さんは、「訪れてみて初めて気づくことは多かった。小田原の木材がどう使われているかを見るだけでもいい。一度相馬に足を運んでほしい」と呼びかける。

これからも、相馬への支援は続く。「ものやお金を送るだけでなく、地域で事業ができる基盤をつくるのが本当の意味での支援。復興を応援したいという気持ちは皆が持っているが、声をかけたり交渉したり、調整したりする人間を育てることもこれからは重要です」と永井さん。「神奈川、そして小田原の皆さんには被災地への関心を持ち続けてほしいし、多くのひとにプロジェクトに参加してもらいたい」。フェイスブックなどソーシャルメディアを通じて情報を発信し、協力を呼び掛けていくという。小田原と相馬の市民による新たな交流は、2つのまちの共通の歴史として、着実に形になりつつある。

【報徳の森プロジェクトへの寄付振込先】さがみ信用金庫 久野支店 普通 口座番号 0676877 報徳の森プロジェクト
【報徳の森プロジェクト連絡先】houtoku.forest@gmail.com  0465-33-1491(小田原市役所農政課内)「差し支えなければ住所・御氏名・ご連絡先をメール等にてご連絡ください。領収書等を発行させていただきます」と同課。

【関連記事】小田原・箱根産業まつりに「相馬はらがま朝市クラブ」が出店!小田原からの支援への感謝と風評被害に負けない想いを伝えたい!(かなマグ.net 2011年9月27日)

http://kanamag.net/archives/18731

▽報徳の森プロジェクト(小田原市ホームページ内)

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/envi/environment_project/houtoku/hotokunomori.html

▽報徳の森プロジェクト facebookページ

https://www.facebook.com/houtoku.forest

▽NPO法人相馬はらがま朝市クラブ ホームページ

http://www.ab.auone-net.jp/~haragama/

▽NPO法人相馬はらがま朝市クラブ facebookページ

https://www.facebook.com/haragama

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がん体験者が「仲間」として患者によりそう支援を地域に
大和市立病院 地域医療連携室 地域医療連携科長 原田文隆さん


 大和市立病院 地域医療連携室 地域医療連携科長 原田文隆さん

大和市立病院 地域医療連携室 地域医療連携科長 原田文隆さん

神奈川県は、2010年7月から「NPO法人キャンサーネットジャパン」(東京都文京区)との協働事業で「がん患者とその家族をサポートする相談(ピアサポート)」を行っている。この事業は、「かながわボランタリー活動推進基金21協働事業負担金対象事業」として採択され、「JA神奈川県厚生連相模原協同病院」(相模原市緑区)、「KADOBEYA(カドベヤ)」(横浜市中区)、「横須賀共済病院」(横須賀市米が浜通)に続き、「大和市立病院」(大和市深見西)が4カ所目の開設となった。2011年に地域がん診療連携拠点病院の指定を目指して、「がん相談支援室」を開設。翌年9月から同協働事業に加わり、がん体験者(ピアサポーター)による相談を開始した大和市立病院地域医療連携室・地域医療連携科長の原田さんに、今までの経緯と今後について聞いた。

ピアサポーター導入の経緯

「大和市立病院」が地域がん診療連携拠点病院の指定を目指し、「がん相談支援室」を開設したのは、2011年9月のこと。看護師の髙橋さん、医療ソーシャルワーカーの小峰さんを担当スタッフとしてスタートした。その後、五十嵐俊久病院長が「横須賀共済病院」のピアサポート事業を紹介する記事を目にし、同院でも導入を検討することを、地域医療連携室の原田さんに指示した。
インターネットなどで調べた結果、がん患者を支援する団体「NPO法人キャンサーネットジャパン(以下、CNJ)」にたどり着き、連絡を取った。「当院では、ピアサポーターを独自で雇用することを検討していたが、CNJが神奈川県との協働事業でピアサポーターを各施設へ派遣していることを知りました。そして、同事業に参画することが決まり、2012年9月から毎週金曜日の10時から14時30分、ピアサポーター1名が『がん相談支援室』に派遣されることになった」と原田さん。

そもそもピア(peer)とは、英語で「仲間」。ピアサポートは、同じような境遇や体験を持つ人同士が助け合うことを意味する。同院に勤務するピアサポーターの女性・Aさんもがん経験者だ。6年前に着替え中に偶然気付き、病院の検査で乳がんの告知を受けた。「自分の病気をインターネットで調べたが、膨大な情報量と玉石混淆の情報に戸惑いました。情報を見極める必要性を強く感じたことと、闘病仲間が天に召され、生かされている私にできることは何だろう」とCNJが主催する「乳がん体験者コーディネーター」講座に参加し、資格を取得した。
「乳がん体験者コーディネーター」とは、乳がん体験者自身またはその家族が、乳がんになった人が直面する問題をともに考え、解決に導く既存の信頼性の高い情報にアクセスし提供できる人材。Aさんはその講座を受けたことで、科学的根拠に基づく最新のがん情報を選ぶ知識を得たという。

がん相談支援室」担当スタッフ 看護師の髙橋さん(左)、医療ソーシャルワーカーの小峰さん(右)

がん相談支援室」担当スタッフ看護師の髙橋さん(左)、医療ソーシャルワーカーの小峰さん(右)

体験者として支え合える仲間

資格取得後は、同じく神奈川県とCNJの協働事業での派遣先となっているレンタルスペース「KADOBEYA」のピアサポーターとして、約1年間勤務してきた。今回、毎週金曜日は大和市立病院の担当となったが、今も月1回は「KADOBEYA」での活動も続けている。
ピアサポーターは、医療者ではないので、治療には踏み込めない。相談者に質問された時には「自分の体験談として話すよう心がけています」とAさん。がんの種類が違うと治療法も違うが、副作用など治療のつらさや抱える不安はがん患者共通の悩みであると思うという。「相談者が困っているときに、『こんな情報があるので、どうですか?』と提案することはありますが、押し付けることはしません」。不安や痛みに苦しむ相談者の気持ちに寄り添い「不安な気持ちに共感し、『ひとりじゃない』ことをお伝えし、ともに考えるのが、私たちのピアサポーターだと思います」と、寄り添う心と冷静な役割認識を両立させている。
もちろん、自らも再発する不安も抱える「当事者」だ。「『KADOBEYA』で受け付けている電話相談で『あなたも頑張ってね』と声をかけられたことがありました。その時、「がん」という共通の体験を通して、お互いに支え合っていることに気付きました」と、双方向に温かい気持ちの交流が育まれているようだ。

がんという「共通体験」を生かす

毎週金曜日のピアサポーターへの相談は、平均2名程度。医療の専門的なことは看護師や医療ソーシャルワーカーが対応、ピアサポーターは『がんになったことで生じる問題』を一緒に整理して、専門家につなぐ。診察という短い時間で聞く医療者の話は、患者にとって難しい用語も多く、意味を理解しにくいこともある。
「2人に1人はがんになる」時代、逆に周囲へカミングアウトしないという人も増えている。Aさんもそのひとりだ。がん体験を明らかにしているのは、ピアサポーターとして活動している時だけ。だからこそ、相談者と話をする機会は、Aさんにとっても貴重な時間となっている。
大和市立病院は、相談者の相談内容によって、医師や看護師、薬剤師などそれぞれの専門職に相談できる体制をとっている。迅速にフォローし、連携してサポートできるのが強みだ。
またAさんのようなピアサポーターは、術後の段階にあわせた下着の選び方や化学療法で眉毛が抜ける前に写真撮影しておくと自然な眉を描きやすいなど、体験者にしかわからない具体的な生活の工夫を伝えているという。

大和市立病院 がん相談支援室では「がん体験者によるピアサポート」に面接相談ができることをチラシで呼びかけている

大和市立病院 がん相談支援室では「がん体験者によるピアサポート」に面接相談ができることをチラシで呼びかけている

誰でも気軽に通える「がん相談支援室」

大和市立病院では、「がん相談支援室」利用者の制限を設けていない。患者でなくとも、誰でも相談できる。同病院以外に受診している患者・家族からの相談も可能だ。
「『がん相談支援室』はまだ開設して約1年半。まだまだ利用者が少ないので、ポスター、チラシなど広報活動に力を入れ、より多くの方に知ってもらい利用してもらいたい」という。
今後は、手応えを感じつつある事業だけに「県との協働事業が終了しても当院ではピアサポーターを独自に雇用し継続していきたいと考えています。また、相談件数が増え週1日での対応が難しくなった場合は、ピアサポーターの人数や活動日を増やすことも考えている」(原田さん)と、同病院は前向きに検討を進めている。

【参考ページ】
大和市立病院内のピアサポートのご案内(神奈川県)
http://www.pref.kanagawa.jp/prs/p510346.html

▽リンク
大和市立病院
http://www.yamatocity-mh.jp/

NPO法人 キャンサーネットジャパン
http://www.cancernet.jp/

KADOBEYA
http://koto-lab.com/kadobeya/
※2013年4月より「KADOBEYA」は「ピアサポートよこはま」に名称変更し相談場所等が変わります。詳細は、キャンサーネットジャパンWebサイトhttp://www.cancernet.jp/peersupportでご確認ください。

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日々の暮らしで培った、きめ細やかな目線を防災・減災に生かす  女性防災クラブ平塚パワーズ(平塚市)


平塚パワーズのメンバー。前列右から2人目が会長・菅野由美子さん=平塚市旭北公民館で

平塚パワーズのメンバー。前列右から2人目が会長・菅野由美子さん=平塚市旭北公民館で

平塚市に、全国でも珍しい女性だけの防災ボランティア組織がある。発足から17年。段ボールを利用した簡易トイレや、バスタオルに下着や靴下を縫い付けた防災ずきんなど、お金をかけず身近にある物を使った災害グッズを考案したり、学校や自治会に出向いて防災を呼びかけたりと、地域に密着した活動を継続。今や、平塚になくてはならない防災リーダーだ。「災害時、まず自分の命を守り、次に家族、そして地域を守る」。当初からのテーマを基本に、生活に密着した視点を生かした防災・減災技術に日々、磨きをかけている。

阪神・淡路大震災を機に

1995年1月発生した阪神・淡路大震災。平塚市は同年度から、災害に強いまちづくりを進めようと、主婦を対象とした「女性防災リーダー育成研修」(2005年度からは「女性防災コミュニティ講座」に名称変更)を開講した。

研修は、防災に関する知識を深める座学と、消火器の使い方や応急手当について学ぶ実践講座で構成されたカリキュラムを約1年間かけて学ぶものだった。第1期の修了生30人の女性たちが「もっと防災の知識や技術を深め、地域の役に立ちたい」と設立した団体が「平塚パワーズ」だ。

「当初は、講座修了生の中で活動を続けたい人が任意で入会していました。今は講座を受けていなくても、意欲がある方なら大歓迎です」と第5代会長の菅野由美子(すがの・ゆみこ)さん(61)。菅野さんは、藤沢市出身で結婚を機に平塚へ移住。市の広報紙を見て「地域にかかわることがしたい」と、1997年度の研修を受けたことが入会につながった。「日頃の備蓄品や災害時に役立つ知識を定例会の中で勉強できるし、知り合いも増えて一石二鳥」と会員は皆、楽しみながら活動している。

地域で活躍

保育園での防災講習会の様子。年齢に合わせて、防災に興味を持ってもらえるよう工夫を凝らす=平塚市河内・あさひ保育園で

保育園での防災講習会の様子。年齢に合わせて、防災に興味を持ってもらえるよう工夫を凝らす=平塚市河内・あさひ保育園で

現在、会員は30代から70代までの50人。市内を6ブロックに分け、会員は普段、自分の居住ブロックを中心に活動する。自治会の防災訓練やPTAや各種団体の防災講習会、幼稚園・保育園・小中学校への訪問…。1年を通して市内各所から依頼が舞い込む。依頼が来ると、活動の内容や必要な人数を事前に打ち合わせるなどして調整する。

子どもを対象にした講習では、紙芝居やクイズなど、楽しみながら防災に関心を持ってもらえるように、年齢に合わせて工夫を凝らす。「○」「×」と裏表に大きく描いたうちわなど、使用する小道具のほとんどは会員の手作りだ。保護者向けに、応急手当などの講習も実施する。

市の防災フェスティバルなど大きなイベントには、オリジナルの「防災ぬりえ」を持参。子どもや女性にも日常から防災を意識してもらうのが狙いという。「メンバーも、事前に必ず練習して本番に臨みます。子どもや地域の皆さんの反応を見ながら教えるのは楽しいですよ」。「また来てね」と笑顔で送られたり、スーパーなどで「パワーズさんだ!」と声をかけられたりすると、地域に生かされ、活動が浸透していることを実感するという。

独自の段ボールトイレを考案

会員が独自に試作、改良を重ねた段ボールトイレ

会員が独自に試作、改良を重ねた段ボールトイレ

日々の暮らしの中で培われたきめ細やかな視点を生かし、災害時に必要な備品の開発を手掛けているのも、平塚パワーズの特徴だ。

例えば、段ボールを使った簡易トイレ。大人が座っても安定するよう強度をもたせ、かぶせたビニール袋の中に用を足す仕組みだ。阪神・淡路大震災の際、多くの女性が避難所でのトイレで苦労したという話を聞き、会員がアイデアを持ち寄って試作を重ね、約1年かけてかたちにした。

中に紙おむつやペット用の砂を入れることで、臭いを抑えられるようになっている。2011年3月6日、仙台での講演会場で実物を披露したところ、人だかりができた。

数百枚を準備した「簡易トイレの作り方」紹介チラシも好評で、たちまちさばけた。その直後の東日本大震災発生。3月16日、仙台市消防局の担当者と連絡が取れ、再度段ボールトイレの作り方の資料を送ったという。

「救援物資の入った段ボールが避難所に山積みにされている様子を、テレビで見ました。女性や高齢者の方々がトイレで困っているのを何とかして助けたい、その一心でした」。被災地の現場で役立った段ボールトイレはその後も評判が広がり、平塚市内だけでなく東京や千葉でも研修の依頼があるという。

楽しみながら、「備え」を実践

月1回のブロック定例会や役員会など、会員が集まる機会は自然と「勉強の場」になる。バンダナやネクタイなど、身近なものを使ったけがの応急手当を学んだり、下着やタオル、靴下など避難時に必要な小物をバスタオルに縫い付けた防災ずきんを披露し合ったり、情報交換も欠かさない。

パワーズは会員による1人1000円の年会費だけで運営する。研修内容など企画を立てるのも、会員だけでできるようになった。

「パワーズの活動を通して、防災についていろいろ学ぶことが安心・自信につながります。メンバーは自宅で応急手当の練習をしたり、日頃持ち歩くと災害に役立つ品物などの話をしたりするので、家族も勉強になるようですよ。主婦目線になりがちですが、それがパワーズの良いところだと思っています」と、菅野さんはこれまで築いてきた仲間たちとのきずなと、そこから生まれてきた確かな歩みに手ごたえを感じている。

いつ起きるか分からない災害。日々培った地域のきずなで被害を少しでも減らせるよう、平塚パワーズはこれからも地域とともに活動していく。

【関連動画】イザ!という時の備えは出来ていますか? 女性だけの防災組織「女性防災クラブ 平塚パワーズ」(かなマグ.net 2012年8月28日)

http://kanamag.net/archives/45837

▽防災リーダー(平塚パワーズの紹介も。平塚市ホームページ内)

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/bousai/bousaileader.htm

▽女性防災クラブ平塚パワーズ「平成24年度神奈川県県民功労者表彰」受賞を報告(記者発表資料 平塚市)

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/press/pres20120101.htm

 

 

 

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創業130年の老舗が新社屋を地域コミュニティの拠点に/住宅メーカー代表・桐ケ谷覚さん(逗子市)


建て替え後の社屋を地域コミュニティの拠点として開放している桐ヶ谷覚さん=逗子市

建て替え後の社屋を地域コミュニティの拠点として開放している桐ヶ谷覚さん=逗子市

ここ数年、逗子市内で行われるイベントの主催者・企画者の多くから「あぁ、それなら”彼”に相談してみよう」と頼りにされている人がいる。その人が、住宅メーカー「株式会社キリガヤ」の代表取締役・桐ケ谷覚さん(逗子市山の根)だ。創業130年・老舗の5代目社長で、東日本大震災の被災地(主に岩手県陸前高田市)を支援する「みんなでがんばろう逗子PROJECT」の代表でもある。

2012年に完成した新社屋(敷地約826㎡、床面積約595㎡、3階建て)の1階と3階にはコミュニティスペースをつくり、市民に広く開放している。大きな企業がほとんどない逗子市にあって、市民のために場所・人力を提供する企業は市民の大きな支えとなっている。地域コミュ二ティの活性化や被災地支援活動に対する思いを聞いた。

市民と交流できる店づくりを

桐ケ谷覚さんは秋田県大館市の食料品卸問屋の次男として生まれた。「生活=商売」という親の背中を見て育ち、「当然自分も商売をやるものだ」と思っていたそうだ。社会人になる頃に出会った妻の実家が1882年(明治15年)創業の材木屋・キリガヤだった。

見習いとして入社し、高度経済成長期終盤の1970年代、建設・建材業界はまだ右肩上がりに利益を伸ばしていた時代だったが、旧態依然の木材の流通現場に接し、「このままこの商売が続くはずはない」と世の中の変化を厳しい目で捉えていた。

案の定、工務店に資材を卸すだけの材木屋としてだけでは経営が厳しくなった。そこでウッドデッキパネルを製造販売したり、システムキッチンのショールームをオープンさせたりと「材木屋」という枠を超えた戦略で、業績を伸ばしてきた。

先代から社長業を引き継いだのは1992年、43歳の時。一貫しているのは「木の良さをしっかりと伝えていくのは材木屋の使命だ」という思いだった。「家のみえる構造部分に木を使いましょう」と言い続け、木のぬくもりの良さを感じられる「家づくり」も始めた。1996年にはガーデン事業部を設立、自然と調和した住まいづくりを提案してきた。

ところが、1921年に建てた旧店舗は材木が入口に立てかけてある昔ながらのつくり。住まいづくりを相談したいお客さんから「中に入りづらい」と言われることも多かった。そこで今回、新社屋建設にあたっては「地域の人たちに気軽に来てもらえるような敷居の低い店づくり」を考え、コミュニティスペースを設けることにした。

移転にあたり、桐ケ谷さんは「逗子市以外の場所も考えた」そうだ。しかし結局、JR横須賀線の線路沿い、逗子市内の場所に拠点を決めてからは「人口10万人3万世帯(逗子市・葉山町・横須賀市田浦~横浜市金沢区六浦周辺)の地元エリアの家をしっかり守っていこう!」と決意した。社屋移転は、市民の生活の場を改めて見つめる機会となった。

会社のイベントから、市民のイベントへ

キリガヤでは木に親しむイベント「キリガヤ祭」を年に1回開催している。2012年に9回目となるこのイベントは親子連れを中心に人気があり、約1500人が来場する。

スタートしたきっかけは、1985年に当時小学校3年生だった次男の夏休みの木工の宿題。友だちなどが工作用の木を探しに来ても家造り用の木はごつくて大きく、子どもには手に負えないものばかり。

そこで、桐ケ谷さんは「子どもにも木に楽しんでもらえるイベントにしよう」と企画。取引先の産地の製材所に協力してもらい、薄く削った木材を大量に用意して、無料で使い放題にしたところ、入場者数は1回目から250名、500名、800名と年々増え、5回目は1200名を越す大きなイベントに育った。手伝いの大工さんたち15名は昼食も食べられないほどフル活動。多くの市民に喜んでもらえるイベントに成長したのだが、予算がオーバーするなど運営が厳しくなり、一旦休止となってしまったという。

時が流れ、当時小学3年生だった息子が同社に入社し、「祭りを復活させよう」と言い出した。かつてのイベントを経験していた社員は2人しかいない。息子たち若者世代が中心になって祭りを開くために奔走し、2009年に再開にこぎつけた。

復活を懐かしんだのは以前のにぎわいを知っていた同じ商店街の人たち。焼き鳥・おでん・焼きそば・手作りパンなどと応援してくれ、貝細工の教室、フリーマーケット、ウクレレの演奏などもあり、1000人を超す盛況ぶりだった。社内のつながりだけで行なっていたかつてのイベントから、商店街などを巻き込む地域のイベントに変化しつつある。

これも、町や商店街のイベントに、協賛金など「お金」を負担するだけだった以前の支援の方法を変え、桐ケ谷さん自らが会合に顔を出してコミュニケーションを図り、社員が参加したり備品をなど提供したりと「顔が見える支援」に切り替えて、つながるようになったことで生まれた結果だ。

さらに、町のイベントに顔を出すようになり、さまざまな立場の人と話をすることで町の中の課題もみえてきたそうだ。まちづくりの課題など市長とも直接意見を交わせることができるようになった。

逗子市のごみ問題×陸前高田の復興支援

さまざまな地域課題に気づき、行動し始めていた桐ヶ谷さんが、さらに一歩踏み込んで、コミュニティに関わるようになった契機はやはり、2011年3月11日の東日本大震災だったという。

震災後、桐ケ谷さんは「みんなでがんばろう逗子PROJECT」の代表となり、「星の王子様」ならぬ「星のおじさまプロジェクト」をスタートさせた。支援先は、十数年前から親交のあった岩手県陸前高田市。被害は甚大だった。震災直後から関わっていた桐ヶ谷さんは、その時々に応じて被災地に必要な仕組みや仕掛けを考え、逗子市民の力をプロジェクトに集めて、息の長い支援を続けている。

被災直後は、食料を運び入れて炊き出しを実施し、ほどなくして自転車やバイクなど「移動手段」を届けた。さらに、避難した住民同士が交流する場の必要性を感じ、募金を集めて縁台を作ってプレゼントするなど、時間の経過につれて変化するニーズをとらえた支援を展開している。

2011年8月には仮設住宅にこもり、するべきことがなく日に日に元気をなくしていくお年寄りを見て「被災地の人が生き生きと働ける環境と自立できる経済の仕組みが必要だ」と、本業のノウハウも生かして陸前高田市竹駒地区で食堂建設に着手した。

「みんなでがんばろう逗子project」の支援で、陸前高田市に建設された「竹駒食堂」=NPO法人遠野まごころネット提供

「みんなでがんばろう逗子project」の支援で、陸前高田市に建設された「竹駒食堂」=NPO法人遠野まごころネット提供

2012年10月14日、地元の業者と協力して木造平屋約70㎡(総工費約700万円)の「竹駒食堂」が完成した。プロジェクトでは、建物建設費や調理器具などの費用を支援し、地域の新たな交流拠点と雇用創出の一助を担っている。

一方、地元の逗子市では「環境」についてアクションを重ねている。逗子市では、「ごみの減量化」が1997年(平成9年)ごろから課題となっていた。

逗子市では、2011年度から3ヶ年継続事業として、老朽化が著しい焼却施設の大規模改修工事を実施している。燃やすごみは近隣自治体の焼却場に処理を依頼しており、市は家庭から排出されるごみの減量化について市民に協力を求めている。
こうした状況を知り、以前から逗子のごみ処理について関心を持っていた桐ヶ谷さんは、隣の葉山町の町民が開発した家庭用生ごみ処理機「バクテリア de キエーロ」で使う木箱製造を依頼された。

「有機分解資材」という特別な黒土が入った木箱に生ごみを投入して、土とよく混ぜると数日で分解するシンプルな仕組みだ。この箱を「キリガヤ」では現在までに100箱近く製作。その木箱製作に、陸前高田市で立ち枯れになった杉を活用することで被災地支援にもつながった。

「ごみの4割を占める生ごみを減らして市の焼却費用を減少させることができれば、商店街活性化のために使えるかもしれない。利便性が高まれば、市民が買い物に来る機会も増え、商店街も元気になる」。逗子市とともに、「市民に活用を呼び掛けている。市とともに家庭用生ごみ処理活用機を進めている桐ヶ谷さんの中には、そんな構想も浮かんでいる。

市民に開放したコミュニティスペースでは、さまざまなイベントが開催されている

市民に開放したコミュニティスペースでは、さまざまなイベントが開催されている

キリガヤのコミュニティスペースには様々なイベントが、日々、市民から持ち込まれている。公的施設と異なり、飲食が可能なため、イベント後の打ち上げで利用されることも多い。桐ケ谷さんも一緒に参加しては、お酒を飲みながら話が弾むそうだ。「わたしは若いころから”回遊魚”なんですよ、動いていないと落ち着かなくて」と忙しさも苦労ではなさそうだ。

キリガヤ株式会社

キリガヤ2012年の様子

バクテリアde キエ―ロ

「ほっ」温もりあふれる母ちゃんの味~陸前高田市に竹駒食堂OPEN
NPO法人遠野まごころネット

 

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震災と原発事故で神奈川に転入してきた中高生をサポート/ SDCハート(茅ヶ崎市)副代表・事務局長 金井加代子さん


「神奈川と被災地をつなぐ双方向の事業をしていきたい」と語る金井さん=茅ヶ崎市東海岸北のSDCハート事務所で

「神奈川と被災地をつなぐ双方向の事業をしていきたい」と語る金井さん=茅ヶ崎市東海岸北のSDCハート事務所で

東日本大震災発生からもうすぐ2年。被災地から緊急避難し、不安を抱えながら神奈川県内の学校に転入学して母子だけで生活する世帯も多い。震災発生直後から子どもたちと保護者をサポートし、神奈川の子どもが防災やまちづくりを学ぶ活動も並行する任意団体・SDCハート(茅ヶ崎市東海岸北)。2012年8月には、神奈川県内の高校生・大学生が宮城県気仙沼市を訪れるスタディツアーを企画・実施した。「震災を風化させてはいけないし、神奈川にいる私たちは学ばなければいけない。次世代を育てることも私たちの大事な役割だと思っています」。キャリアコンサルタントという“本業”を生かし、未来を見据えて活動を続けている。

被災地と神奈川をつなぐ

震災前から神奈川県立高校のキャリアアドバイザーを務めていた金井さん。SDCハートは、福島県双葉町出身で神奈川県立高校の補助教員だった知人男性とともに、震災直後の2011年4月発足させた。「彼は神奈川の大学を卒業後は、地元で就職する予定でした。しかし震災で家も仕事も失ってしまった。急きょ、補助教員の仕事を紹介したのです」

福島から緊急避難し、その男性が勤務する高校へ転入した生徒がいた。なかなか新しい学校になじめず元気がなかったという。「同郷のあなただからこそできるケアがあるんじゃない? とアドバイスしました」。県立高校の教員有志の協力もあり、被災地から転入してきた中高生が交流し元気になれる団体を設立した。

笑顔、夢、そして挑戦

SDCはSmile(スマイル)、Dream(ドリーム)、Challenge(チャレンジ)の頭文字からとった。まずは笑顔を取り戻し、夢をあきらめず前向きに歩き出す-。仲間づくりや学習支援、復興支援イベントなどを企画。保護者会を定期的に開くなど、子どもたちと一緒に生活する保護者への支援にも力を入れる。そのほとんどが母親だ。

現在、会員は50世帯ほど。その多くが福島県から避難してきた母子で、将来への不安を抱える。「お母さん同士で共感し、支えあう『県人会』のような形を目指して応援しています。いずれは、SDCハートの運営をお母さん方にバトンタッチしたい」

福島県の高校生は、神奈川よりも製造業に就職を希望する割合が高い。このため、福島の高校生が、神奈川内にある製造業の現場で就業体験をするインターンシップも行った。子どもと母親の支援に加え、被災地と神奈川をつなぐ双方向の事業をこれからも展開したいという。

現地を訪ね、「温度差」を自覚

2012年8月に宮城県気仙沼市を訪れたスタディツアー(SDCハート提供)

2012年8月に宮城県気仙沼市を訪れたスタディツアー(SDCハート提供)

2012年8月、神奈川県内の高校生と大学生36人が参加して3泊4日の被災地スタディツアーを行った。復興支援で気仙沼市に事務所を置く公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA、本部=東京都新宿区)に協力を依頼し、避難所だったコミュニティセンターに宿泊。実際に街を歩いたり、震災を体験した人に体験談を語ってもらったりした。

「現地では『復興という気持ちにまだなれない』という方が多かった。自分のことで精一杯だと。そこをあえてお願いしました」。学生たちは、実際に現地を訪ねたことで、初めて被災地と神奈川の「温度差」も感じたという。

もう1年半、まだ1年半…。「観光客気分で来てほしくない」という思いを受け止めながら、次代を担う子どもたちに社会貢献や奉仕の心に気づいてもらいたいと、金井さんは地元との信頼関係を築くため、連絡調整に奔走した。

私たちは微力、でも無力じゃない

会員向けに発行する「SDCハート通信」(SDCハート ホームページより)

会員向けに発行する「SDCハート通信」(SDCハート ホームページより)

スタディツアーを終えて神奈川に帰ってきた高校生と大学生。同月下旬には横浜市内で報告会を開いた。ベビーカーや、封を開けていないジュースが散乱するがれきを実際に見て、その生々しさ、生活感にがくぜんとした。軽々しく「がれき」「復興」と口にしてはいけないと感じたという。

現地を訪れたからこそ学んだものは多かった。「自分が住むまちを防災の視点で見ることができるようになった」「私たちは微力だけど無力じゃない。だから頑張ろうと思った」。子どもたちは多くを学び、自分の言葉で語った。

SDCハートでは現在、会員が集う交流会を開催したり、被災者対象の無料カウンセリングを紹介するなど精力的に活動を続けている。他にも、震災発生から丸2年の今年3月11日、実際に東北の地を訪ねるスタディツアーを実施するのはどうか?など、アイデアは尽きない。

「神奈川に災害が起こったとき、1人のいのちも失いたくない。子どもたちに自分のまちをつくる、守っていくという意識を持ってほしい」。これからも被災した子どもたちと親を支えながら、神奈川の子どもたちの育成にも力を注いでいく。

▽SDCハート

http://www.sdc-heart.com/

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